日本人のカタルシス 考察


先日、ある地域の方とお話する機会があり、こんなことを聞いた。

この洞窟にある神社は、昔、どこぞのお姫様が流れ着いて、村人はそれを知っていたのだが、戦争で負けて逃げてきた姫様らしく、それをかくまうと自分たちも殺されるかも知れないと言う恐怖心から、姫様をほったらかしにして、結局、姫様は飢えか病気かで死んでしまった。その慰めとして神社を建てたと聞いている。

実はこの手の話をいくつかの地域で聞いたことがあるが、その度に「日本人的思考」の代表パターンだと僕は感じている。

つまり、死んでしまう前に何かしらの手を施すなり、自分たちがとばっちり食うのが嫌なら村から追い出せばいい。

その両方もできず、つまり白黒つけられず、結果、時間が解決してくれるのを待ち、誰も責任を負わないと言う状況を作っているのだ。

そして姫様が死んだ後に神社を作ると言う行為は、はっきり言えば、死んでしまった人間には、もはや神社などなんの役にも立たないわけで、

これら神社建立の言い伝えが本当のことだとしたら、それはあくまで、見殺しにした自分たち(集団)の罪滅ぼしと言い訳、カタルシスに過ぎないのである。

つまり、弱者を見殺しにしたと言う卑怯な自分たちの存在を浄化するために、亡くなった姫様を神様と言う畏れに変換し、神社を作用させているだけなのである。

もっとも、この話を教えてくれた現代に生きる人々には、先祖から伝えられた話で合って、なんの関係もない立場だが、

僕はこの手の話を聞くたびに、日本人のつくってきた文化は、見殺しの文化であると気づくのである。

自分に主体性がなく、正義よりも目先の損や不和を嫌う。地頭や首領に従うことでしか、行動を起こせない、奴隷精神であるとも言える。

さて、これまた先日、機会に恵まれ、東日本大震災で被害にあった地域を岩手から宮城まで見学してきたのだが、どこも無益なかさ上げと論理性のかけらもない防潮堤がずらりと並ぶ。

その街並みに、元のように人は戻らないだろう。これも日本人のカタルシス文化が関係しているように思う。

つまり、誰も住まず工場も立たない雑草生え放題のかさ上げ土地と、津波に耐えられるかどうか分からないコンクリートの塊は、まさに神社なのである。

亡くなった方々に対する罪滅ぼしであり、何か対策をしなければ国家体制が揺らぐと言う見栄を、巨大建造物に託すことで、有無を言わせない雰囲気をつくっているのである。

もっと合理的経済的な防災方法があるのに、とりあえず巨大で贅沢なものを作って、自分たちのカタルシスとするのである。

しかも怖いのは、この合理性のかけらもない事業に主体性がないと言うこと。

Twitterでもつぶやいたが、

国 → 金はいくらでもやるから津波に強い街を作れ

県1 → なるほど、防潮堤を作れと(県にお金も落ちるし)。

県2 → 国は防潮堤をつくれと言っているぞ!分かったかい市の皆さん。

市 → こんなの無駄だよ。でも国がそう言ってるならやるしか自分たちが生き残る道はない!

一部市民 → こんなの無駄だよ。でもみんな何も言わないし、自分だけ戦うのは損だし怖いから黙ってよ。

一部市民 → 防潮堤完成 → こんなの不要だって当時は思ってたんだ!

と言う構図。

もちろん孤軍奮闘している人もいるし、生きる道を柔軟に作ってる人もいる。

しかし、被災地に住み、見てきた結果、上記の様なケースが多いと僕は思う。

関係機関の書類が捏造されているのも想像に容易い。

もはやこれは日本人のカタルシスなのである。

誰も当事者意識を持たず、正義よりも雰囲気を壊さないことに意識が行き、孤立しないために意見を言わない。

被災地に住んでからと言うもの、こんなネガティブなことばかりが目に付く。

何かプラスの話はないだろうか。



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