まずは肉体的に強くなれ
小学生のとき、僕は心配事や嫌なことがあると、お腹が痛くなるような少年でした。
いじめなどにはあったことはないですが、テストがあるとか、人前で朗読するとか、今では考えられませんが、体育の授業なども、運動神経の悪い僕にとっては、常に不安のもとでした。
しかし、そんな自分を変えたいと思う出来事がありました。
それは小学5年生の時だったと記憶しています。クラスの友達と殴り合いのケンカをしたことです。
相手は人気者でスポーツ万能、女子にももてる人でした。
僕は目立たない方ではなかったですし、嫌われてもなかったと思いますが、なんと言うか、人に嫌われないように、いつも周囲を気にして、愛想笑いをして過ごしてるような少年でした。
だから学校に行くのが本当は嫌で、しょっちゅう、お腹が痛くなっていたのです。
そんな僕と彼が、理由はなんだったか忘れましたが、とにかく取っ組み合いのケンカをしたのです。
もちろん小学生のケンカですから、勝ち負けのないようなものですが、僕は殴られたこと、そして相手を思い切り殴れなかったことが、心底悔しかった。
そのとき、僕は強くなりたいと思いました。それが鍛える最初のきっかけでした。
最初はどう鍛えていいか分からないから、ロッキー(誰しもご存知のボクシング映画です)などを見て、ロードワークや腕立て伏せ、シャドーボクシングなどをして、
とにかく肉体を鍛えることに目覚めたのです。
そのうちに近所に空手の道場ができ入門し、本格的に鍛えるようになったのですが、我流で1年くらいは鍛えていたと思います。
不思議と中学にあがる頃には、いつの間にか、お腹が痛くなるようなことはなくなっていました。
精神的に強くなったから?
いや、これは肉体的に強くなって、物理的な強さを手に入れ、ケンカに負けないと言う自信がついたからだと思います。
つまり、幼かった自分にとっては、ケンカに負ける、相手に呑み込まれる、相手に支配されてしまう、と言うことが、一番のコンプレックスと言うか、嫌なことだったのだと今では分析しています。
それを肉体鍛錬によって克服したのが、僕の人生の最初の転機だったと思います。
さて、話は変わりますが、世の中には、人に注意されたり怒られたりすると、委縮してしまうタイプの男性が結構いるように感じます。
僕みたいな温和な人間に注意されても、こわ張ってしまう。
そして、そのようなタイプの人は、委縮し、思考停止状態に陥り、説教に対する回答も出来ない。
概ね、そのようなタイプの人は、素直にハイと返事するだけ(高校の部活みたいな)で、
なんとかその場を逃げ切ろうみたいな感じになってしまう。
ようは、戦えない と言うことです。
もちろん、何かを注意されているような場合は、きちんと話を聞いて反省し、次に生かせばいいのですが、
相手に呑まれてしまうような人は、かわいそうなくらい思考停止し、行動の質が低下、ミスも多発、もはや、自分でも何をしているか分からないような、ボロボロの状態になってしまう。
繰り返しますが、そんな人が多いように思います。
このような話を聞くと、では、精神的に強くならねばと思う人がほとんどでしょうが、僕の考えは違います。
まず肉体的に相手よりも強くなること、ケンカしても負けない力を手に入れることが先決だと思います。もしくは刺し違えられるくらいの肉体鍛錬を最初にすべきだと考えています。
随分と物騒な話に聞こえるかも知れませんが、勘違いして欲しくないのは、気に入らない相手がいれば、殴り倒せと言っているので決してなく、
男子たるもの、相手をいつでも倒せると言う肉体的な余裕を持つべきで、それがあるから精神的な余裕が生れ、相手と落ち着いて話し合えると言うことです。
ですから、怒られて委縮し、思考停止してしまうような人は、まずは肉体的に強くなるべきだと言うのが、僕の鍛錬に対する第1の考えです。
精神力などはその次の話です。
しかし、このように言うと、争いは何も生まない、心を開いて融和すべきだと反論する方もいらっしゃるでしょう。
もちろん僕も同意見で、融和が目指すべきところですし、争いは好みません。
そもそも争うために鍛えろと言っているのではありません。
重要なのは、相手と対等かそれ以上の肉体的な強さをもって、はじめて対等に話し合え、そして肉体的な支えがあってこそ、精神的に充実すると言うことです。
これは国家間の交渉などにも言えることで、力が拮抗している国同士だからこそ、話し合いのステージに立てるのです。力のない国が何を言っても相手にされません。
しかし、いつか必ず、自分より強い人に出会う時が来ます。その時に男として本質的に相手を敬うことや、肉体的でない強さ、精神的な強さを発見するに至るのです。
その過程なくして、最初から頭の中だけで、尊敬だの融和だのと言うのは、僕に言わせれば、ただの言語的な理解で、妄想に過ぎません。
さて、長くなりましたが、僕のところに教えを請いに来る方のほとんどは、精神的に強くなりたいと言います。
それに対して、まずは肉体的に強くなりなさい、と言うのが僕の答えです。
その方法は、勧善道場に来ればお教えしますが、とりあえずそのへんの木でも叩いて拳を鍛えることから始めてはどうかと思います。
はい、これはマジな話ですよ。
あ、写真はタイヤですが。
いじめなどにはあったことはないですが、テストがあるとか、人前で朗読するとか、今では考えられませんが、体育の授業なども、運動神経の悪い僕にとっては、常に不安のもとでした。
しかし、そんな自分を変えたいと思う出来事がありました。
それは小学5年生の時だったと記憶しています。クラスの友達と殴り合いのケンカをしたことです。
相手は人気者でスポーツ万能、女子にももてる人でした。
僕は目立たない方ではなかったですし、嫌われてもなかったと思いますが、なんと言うか、人に嫌われないように、いつも周囲を気にして、愛想笑いをして過ごしてるような少年でした。
だから学校に行くのが本当は嫌で、しょっちゅう、お腹が痛くなっていたのです。
そんな僕と彼が、理由はなんだったか忘れましたが、とにかく取っ組み合いのケンカをしたのです。
もちろん小学生のケンカですから、勝ち負けのないようなものですが、僕は殴られたこと、そして相手を思い切り殴れなかったことが、心底悔しかった。
そのとき、僕は強くなりたいと思いました。それが鍛える最初のきっかけでした。
最初はどう鍛えていいか分からないから、ロッキー(誰しもご存知のボクシング映画です)などを見て、ロードワークや腕立て伏せ、シャドーボクシングなどをして、
とにかく肉体を鍛えることに目覚めたのです。
そのうちに近所に空手の道場ができ入門し、本格的に鍛えるようになったのですが、我流で1年くらいは鍛えていたと思います。
不思議と中学にあがる頃には、いつの間にか、お腹が痛くなるようなことはなくなっていました。
精神的に強くなったから?
いや、これは肉体的に強くなって、物理的な強さを手に入れ、ケンカに負けないと言う自信がついたからだと思います。
つまり、幼かった自分にとっては、ケンカに負ける、相手に呑み込まれる、相手に支配されてしまう、と言うことが、一番のコンプレックスと言うか、嫌なことだったのだと今では分析しています。
それを肉体鍛錬によって克服したのが、僕の人生の最初の転機だったと思います。
さて、話は変わりますが、世の中には、人に注意されたり怒られたりすると、委縮してしまうタイプの男性が結構いるように感じます。
僕みたいな温和な人間に注意されても、こわ張ってしまう。
そして、そのようなタイプの人は、委縮し、思考停止状態に陥り、説教に対する回答も出来ない。
概ね、そのようなタイプの人は、素直にハイと返事するだけ(高校の部活みたいな)で、
なんとかその場を逃げ切ろうみたいな感じになってしまう。
ようは、戦えない と言うことです。
もちろん、何かを注意されているような場合は、きちんと話を聞いて反省し、次に生かせばいいのですが、
相手に呑まれてしまうような人は、かわいそうなくらい思考停止し、行動の質が低下、ミスも多発、もはや、自分でも何をしているか分からないような、ボロボロの状態になってしまう。
繰り返しますが、そんな人が多いように思います。
このような話を聞くと、では、精神的に強くならねばと思う人がほとんどでしょうが、僕の考えは違います。
まず肉体的に相手よりも強くなること、ケンカしても負けない力を手に入れることが先決だと思います。もしくは刺し違えられるくらいの肉体鍛錬を最初にすべきだと考えています。
随分と物騒な話に聞こえるかも知れませんが、勘違いして欲しくないのは、気に入らない相手がいれば、殴り倒せと言っているので決してなく、
男子たるもの、相手をいつでも倒せると言う肉体的な余裕を持つべきで、それがあるから精神的な余裕が生れ、相手と落ち着いて話し合えると言うことです。
ですから、怒られて委縮し、思考停止してしまうような人は、まずは肉体的に強くなるべきだと言うのが、僕の鍛錬に対する第1の考えです。
精神力などはその次の話です。
しかし、このように言うと、争いは何も生まない、心を開いて融和すべきだと反論する方もいらっしゃるでしょう。
もちろん僕も同意見で、融和が目指すべきところですし、争いは好みません。
そもそも争うために鍛えろと言っているのではありません。
重要なのは、相手と対等かそれ以上の肉体的な強さをもって、はじめて対等に話し合え、そして肉体的な支えがあってこそ、精神的に充実すると言うことです。
これは国家間の交渉などにも言えることで、力が拮抗している国同士だからこそ、話し合いのステージに立てるのです。力のない国が何を言っても相手にされません。
しかし、いつか必ず、自分より強い人に出会う時が来ます。その時に男として本質的に相手を敬うことや、肉体的でない強さ、精神的な強さを発見するに至るのです。
その過程なくして、最初から頭の中だけで、尊敬だの融和だのと言うのは、僕に言わせれば、ただの言語的な理解で、妄想に過ぎません。
そのようなうわべの尊敬や優しで満足してしまっているような人は、ちょっとストレスがかかれば、すぐに化けの皮が剥がれます。ようは、苦しい時こそ、その人の本質が見えると言うことです。
それに対して、まずは肉体的に強くなりなさい、と言うのが僕の答えです。
その方法は、勧善道場に来ればお教えしますが、とりあえずそのへんの木でも叩いて拳を鍛えることから始めてはどうかと思います。
はい、これはマジな話ですよ。
あ、写真はタイヤですが。
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