知るために必要なこと

知る、と言うことは、誰かに手取り足取り教えてもらうことばかりではないように僕は思います。

写真中央の青年が持っているブラシをよくみると、ブラシ部分が上むきになっています。

実はこのブラシの反対側は水切りになっていて、これに写っている作業は、小屋にたまった海水を外にかき出している場面です。

ですから、ブラシ側を使うよりも水切り側をつかった方が当然効率はいいわけです。

しかし、このブラシを実際に持ってみると、水切りが付いているとは、ちょっと分かりにくく、

ほとんどの方は、最初、ブラシ側を使ってしまいます。

さて、ここからが本題。

このブラシの構造を知るには、

・誰かに教えてもらう
・誰かがやっているのを見て覚える
・間違えて(或いはふざけて)反対側を使ってしまったときに気が付く

このパターンだと思います(見た瞬間に構造を理解する人は除外)。

で、どのパターンがブラシの構造を「知る」のにはベストなのか?

いや、ベストはないですね。その人の価値観です。

僕は誰かに教えてもらうよりも、誰かを見て知るとか(職人の世界で言うところの見て盗むですね)、

間違えたり、おふざけをしているときに、偶然知ることの方が好きです。

これは、ブラシの構造のような小さなことだけではなく、あらゆる事物に対してです。

少なくとも僕はそうやって生きてきました。あらゆるものを自分の手で触って頭で考えて答えを出す。

もちろん、このパターンは、誰かに教えてもらうよりも、答えにたどり着くまでに時間を余計に使います。

だから「間違は許されない正解主義、無駄な時間は与えない時短主義」の現代には馴染まないでしょう。

でもこの、自分でやってみて、自分で答えを見つけ出すと言う行為は、考える力、観察力、注意力などを高めてくれると僕は思います。

結果、物事を見た瞬間に、その特徴を把握したり、流れを理解できるような思考力を身に着けることができるのではないでしょうか。

いつも誰かに教えてもらっていると、考える力はそんなに育まれないように思います。

もちろん僕も答えを聞くときありますが、それはすでに自分の中にひとつの答えがあって、それを確かめるため、と言うのがほとんどです。

最初から手取り足取り教えてもらって出来た気になっているのでは、僕の中では価値が低い。

しかし、この窮屈な社会、学校生活などでは、自分で答えを見つけ出すなんて、そんな余裕はありません。すぐに答えを出さなければならないし、間違えも、遊びも許されません。

でも、雄勝の様な浜文化の空間では、漁師は人に寛容だし、お年寄りも細かいことを気にしない。だから、自分で答えを見つけ出すための時間が作り出せるのです。

ようは、余裕があると言うことです。

さて、本題の「知るために必要なこと」の答えは、自分で気づく必要性を主張するものですが、

でも、行きつくところは、そのための環境なのです。

それは、雄勝のような、のんびりとした浜がいいのだと思います。

こう言う場所なら、自分でやってみる時間があるし、間違えても許される。

話は変わりますが、僕が主催する勧善道場に来る道場生たちにも、

自分で考える場をどんどん提供できればと思っています。

しかし、このブログ、閲覧数はそこそこあるのに、コメントがつかないのは何故なのか?

ちょっと寂しい鍛錬家からは以上です。

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